2011年3月18日金曜日

東日本大災害について

無責任言いたい放題ブログです。
被災された皆様心よりお見舞い申し上げます。
今回の東日本大災害は本当に悲劇で痛ましいことなのですが、客観的に思ったことを書きます。
95年の阪神淡路大震災と比べて、行政やボランティアの手当てがものすごく早いような気がします。
阪神淡路大震災の時に東京に住んでいて対岸の火事か外国の出来事だったのですが、当時も不眠症で朝まで起きていてテレビを見ていたら、ニュースで地震を知り、すぐ大阪の実家に電話すると母が出て、地震は凄いけどこっちは大丈夫だよと言われて、安心して出社して、会社でお前のところ大丈夫かとみんなに言われ大丈夫と答えて、一応電話するともう、『回線が集中して』と2~3日連絡取れませんでした、実家は大揺れで食器が割れたくらいで無事でした。
その後、母に話を聴いたところ、母は本町まで出勤していて、会社周辺も無事で、事務所の中がグチャグチャだったくらいで、特に問題ないらしかったのですが、何週間も経ってからも、被災した人がリュックを背負って大阪のオフィース街で、見かけるとの事でした、被災している人以外は普通の生活だったみたいです。
次に、2000年に私は大阪に転勤になって、会社の人で神戸で被災した人に話を聞くと、トリッキー超短期に上下動で目が覚め、見ると顔の上に天井があったそうです、家族奥さんと子供も無事で、体と服と原付一台しかなかったそうです、お金も無く原付を押しながらさまよっていると、ポリタンクを売っているか配っているところがあって、順番で1人手前で残り2個になったそうです、その人に眼力で訴えると譲ってもらえたそうですw、それから公園に行き水を確保して、何日か空腹の後は、炊き出しにありついたりして、生き延びたそうです、その人が会社に連絡取れたのは1ヵ月後だったそうです。
被災した人は大変だったのですが、無事だった人たちはそんなでもなかったみたいです、何年かして、友人が関学で結婚式をしました、教会のそばは空き地がそこここにあったりしました、被災して更地になったそうです。
私は東京で本当に対岸の火事状態でした、多分震災直後も新橋で夕方居酒屋(纏駒)で飲んでいたと思います、その時仕事は物の手配をしてまして、西日本を経由するものはたまに震災の影響があった程度で、納期遅れは震災のせいにしたりしていました;;。
興味なく報道が目に入ってくる程度でしたが、ボランティアとか行政が入ってきたのは2~3週間後だったような気がしますもっと早かったと思いますが、東京で興味なく見ていた者にとってはその程度でした、それからすると、今回の対応は相当迅速だと思います。内閣陣が良いわけではないと思うのですが、その下の官だったり、ボランティアの意識だったりレベルが上がっているのだと思います。
福島原発の対応は何故か後手後手でもどかしいです、難しいことをやっているのだと認識しておりますが、ごめんなさい、もっと頑張って欲しいです;;。
後は全ての話が曇ってしまいますが、こんな時に北朝鮮が助けに来れば、色々なことをチャラにしてもらえるのではとも思っています;;国の経営者だったらキムジョンイルも考えればいいのにね。
ロシアは嫌々ながらガスを送るよと言う感じ、中国、韓国は人を派遣してきてくれています。
以上

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